吉祥寺村立雑学大学
2095回(2021/10/09)雑大レポート 「特研生ー戦時下大学の『国策協力』」
太平洋戦争中、徴兵を猶予される「大学院特別研究生」(「特研生」)という制度があった。1943(昭和18)年9月29日付けで交付され、10月1日施行の文部省令に定められた制度で、文部省は省令公布に際し「殊に科学戦、思想戦たる様相が益々激化した現下の情勢において……研究者にその人を得ることは極めて肝要」と制度の趣旨説明を行った。この制度で採用された特別研究生は入学金や研究費が免除されたほか、学資として月額90円以上が支給され、さらに入営延期の措置がとられた。制度が適用されたのは東京、京都、東北など内地の7帝国大学と東京商科(現・一橋)、東京工業、東京文理科(現・筑波)の3官立大学、それに早稲田、慶応の2つの私立大学と定められた。定員は毎年、前期2年が約500人以内、前期2年修了者の中から約250人が後期3年に進学するとした。
同年12月には文科系学生の徴兵猶予が停止され、「学徒出陣」となった。特研生制度はこれと裏腹の関係だった。『京都大学百年史 総説編』によると、初年度の昭和18年度採用された京都帝大関係は計79名。しかし、翌昭和19年度には早くも文科系学生は選考から除外され、全国で350名、京大関係は計52名だった。『京都帝国大学新聞』に載った初年度の特研生の中に、理学部の学生として梅棹忠夫氏の名前が見えるのが注目される。
『梅棹忠夫著作集 第1巻 探検の時代』(中央公論社)に梅棹氏が自身の兵役に関連して、「わたしは、れっきとした現役の戦車兵だった。……ただし、一度も戦車にのったことがない。大学院の特別研究生という身分で、入営が延期されているうちに、戦争がおわってしまった」。同じ卷の別の部分の注に「1944年はじめから敗戦までのあいだ今西錦司、森下正明、加藤泰安、中尾佐助らは張家口の西北研究所員として、内モンゴルの生態学的研究にしたがった」と、やや具体的に説明している。
本田靖春『評伝今西錦司』(山と渓谷社)によると、今西氏らは満州国治安部(事実上、関東軍の傀儡)から2万5千円の資金援助を受けて、念願の大興安嶺探検を成功させた。その後、今西氏は張家口に新設された蒙古善隣協会の西北研究所に所長として迎えられた。善隣協会は関東軍の一歩先に出て行って、民間に入り込む国策団体で、今流に言うと謀略団体だった。……西北研究所という名前にも大東亜共栄圏を「西北」中国にも広げたいという野望が表明されているという。同研究所には今西人脈のメンバーが参加し、梅棹氏は大学院生、つまり特研生の身分で参加していた。同研究所については、佐野真一の『阿片王―満州の夜と霧』(新潮社)にも本田とほぼ同趣旨の言及がある(28~29ページ)。 特研生制度は終戦を挟んで存続し、昭和19年度割り当てがなかった文科系も、敗戦後に始まった翌年度から復活した。昭和21年3月、制度は文部大臣から各大学の総長・学長の直轄下に移され、その後、制度の骨格は育英会に引き継がれた。(文責・高橋輝好)